ABOUT

About Me

明石 博之 HIROYUKI AKASHI
[場ヅクル・プロデューサー]

グリーンノートレーベル株式会社 代表取締役 [web]
株式会社コンショク 代表取締役 [web]

1971年、広島県尾道市(旧因島市)生まれ
1990年、広島皆実高校 卒業
1995年、多摩美術大学美術学部 デザイン学科 プロダクトデザイン専修 卒業
1996年、株式会社地域交流センター企画 入社(その後、役員に就任)
2010年、富山県に移住(現在、射水市在住)
2013年、カフェuchikawa六角堂をオープン[web]
2014年から、本格的にマチザイノオト事業に着手[web]

Personal History

幼少時代、からだが弱くて病気がちの僕は、まともに大人になれる自信がありませんでした。
若くして亡くなった祖父から事業を引き継いだ父は、母と共に、毎日忙しそうに働いていたため、子どもの僕と姉は、祖母によく面倒をみてもらいました。また、近所に住んでいた親戚や、知らないおじちゃんにも可愛がってもらい、内気でおとなしい僕が、僕らしくあり続けることができました。

小学生になったとき、父の会社が倒産しました。学校や近所の友達と十分“さよなら”ができないまま、夜逃げ同然で生まれ故郷を去り、広島市内で暮らすことになりました。昔から漫画を描くのが大好きな子どもでしたが、時には友達と一緒に山へ遊びに出かけ、昆虫採取や秘密基地づくり、新しい遊び方の開発に明け暮れていた、まさにわんぱく小僧でした。クラスでも目立つ存在で、将来は色々な発明をする「博士」になりたいと思っていました。

引越の都合で、小学校の校区とは異なる、県内でも問題児が多いことで有名な中学校に入学することになりました。学校生活は、悲惨でした。先生と生徒が殴り合いをしたり、暴走族が校庭に入ってきたりと、毎日信じられない光景が繰り広げられ、漫画好きのわんぱく小僧は、すぐにイジメの対象になりました。このことは、親には黙っていました。あるとき、学校で一番の不良グループにからまれ、死んでもいい覚悟で猛反撃をしてみたところ、結構互角にやりあうことが出来たことで、その後の中学生活は一転。僕は不良グループ側にいました。

このままではいかんと、中学3年から猛勉強をして進学校に入学。高校生になると、恋愛とバンド活動の日々、部活もそれなりに頑張りました。その一方で、中学時代の不良グループや暴走族の先輩たちと夜な夜な遊びにでかけていました。しかし、漫画好きでわんぱく小僧だった少年は、デザインという世界に興味を持ち、美大を目指して勉強することになります。進路相談で「美大に行きたい」というと、先生が大笑いしたことを今でも忘れません。

一浪をして難関だった多摩美大のプロダクトデザインに入学することができました。倍率40倍以上でした。今でも受験に落ちる夢を見ますが、本当に自分的には快挙です。物凄く高い学費を払ってくれた親に感謝します。大学4年間を通して、まったく遊ぶ時間がないほど、毎回のように出る課題がいくつも重なり、まさに「デザイン漬け」の毎日でした。バブルの余韻が若干残っている時代に就職活動を迎え、多摩美大プロダクトの生徒は、まだまだ売り手市場でした。ところが、担当教授から「君はプロダクトデザイナーに向いていない」と宣告されて、そのショックで、デザイン業界への就職を諦めました。

大学で頑張ったものの、新卒就職では完全に失敗しました。まったく違う業界で腰掛のような仕事をしてみたり、自分で請負のデザイン仕事をしてみたり、ガーデンやディスプレイのデザインをアルバイト的にやってみたり、もう進むべき道がわからなくなっていました。実は担当教授に言われた言葉には続きありました。「・・・には向いていないが、社会システムデザインという面白い世界がある」その言葉が頭から離れませんでした。卒業して1年近く経ったとき、ある方から紹介されたのが、まちづくりのコンサル会社でした。僕は直感的に「社会システムデザイン」に近いんじゃないかと思い、迷わず就職しました。

就職した会社は、社会実験という当時としては斬新な手法を用いて、「道の駅」のしくみを国に提案した会社です。つまりは「道の駅」の生みの親のひとり(1つの会社)です。地方創生、ローカルデザインなどという言葉が横行するはるか以前、地方の地域活性化を考え、地元の人たちと一緒に議論して、事業をつくっていく、面白いスタンスの会社でした。東京に住んでいながらも、全国各地を飛び回り、週の半分近くを地方で過ごしました。

就職から10年が過ぎた頃、もっと具体的かつ定点的な活動がしたくなり、「東京のコンサル」という立場の限界を感じて、地方で活動するプレイヤー側になることを考えるようになりました。地方に移住したい旨を社長に告げ、準備を着々と進めていた矢先、社長が倒れてしまいました。当時役員だった僕は、仕方なく社長を引き受けることになり、富山に住みながら東京オフィスのスタッフたちを率いて、会社経営をすることになりました。

そのあたりから書き始めたブログです。

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